この度、個展「Fractal」を2024年9月7日(土)~2024年9月20日(金)の期間で銀座 蔦屋書店アートスクエアにて開催する。
今回の展示では、現代社会における「個人と世界」や「肉体と精神」の関係性を、日本の伝統的な「静と動」の概念に接続させた。同時に、普遍的かつ時代性を伴ったその解釈を、自身のこれまでの作品変遷から抽出し重ね合わせることで、絵画を新たな視点でフォーマット化することに挑んでいる。これによって、作品自体の持つ意味合いはアート史と接続し、改めて強さを増していたと考えている。
さて、ここで少し個人的な振り返りを。
今回の銀座蔦屋での個展は前回の「SUDDEN」(2021.7)以来、丸3年ぶりである。
「SUDDEN」の時は、作品を見てもテーマを振り返っても中々複雑に、かつ限定的な視点で世界を見ていて(世間がコロナ禍中であったことも無関係ではないであろうが。)自身の状態が見て取れる。その後は、抽象画からポートレートに移行し多くの展示でポートレートを描いてきた。そして今回、三年ぶりの銀座蔦屋の個展では、また抽象画を出すのだからやはり人生は、ひいては作家活動はどう変遷するか自分ではコントロールしきれず、予想もつかない。(世界情勢や時代との相互作用の中で発生するものだからである。)
加えて、今回の作品は自分にとって大きな意味を持っている。
もちろん、毎度の展示が大切でスペシャルなのだが、自分はキャリアを開始してからの約五年で本当に沢山の作品を作り、展示ごとに全くと言って良いほど新しいスタイルを発表してきた。その変遷には、自分を取り巻く周りの影響がまったく関係性がなかったか?と言われれば否定できない。それくらい、良くも悪くも作品を作ることはセンシティブなものだ。とも思う。
同時に、直近の1~2年は不確かな感情やその浮き沈みに自分自身が飲み込まれてしまい、思うように作品を作り出せなかったのも事実だ。けれど、その間も作品の種になることや自分と世界との関係性を真摯に見つめ続けていたのもまた事実なのである。
そんな感情を抱えていた事もあり意識的に暫くの間、キャンバスから離れることにした。
その代わりと言っては何だが、小さいメモ帳と鉛筆を持って街を歩くことが増えた。もちろんバスや電車の時も。そうして、自分の心が動く瞬間、つまり世界を美しいと思えた瞬間を即座にドローイングで記録する事にした。それらのドローイングを振り返り"編集"していく中で、自分が「記録」をどれだけ大事にしていてその視点の集積こそ世界との関わりだと、身に沁みて感じられた。言い換えれば、世界の美しさは、心から溢れて点となり線となった。それからは、まるで遥か昔からそこにあったように、自身と世界の関係や心とからだの共存が投影されているように感じた。感情に身体性を伴うとき、それは集積となりパターンとなる。その繰り返しで人は、世界はできている。そして、それこそが気づけていなかった「美しさ」である。
その日の帰り道、僕はアトリエに戻ってキャンバスの前に立っていた。
そうやって「FRACTAL」はこの世に生まれた。
美しさの破片は、世界の片隅、自分の中にあるのかも知れない。
では、個展どうぞよろしくお願いします。
ps.最後に、盟友のコピーライターYutaroNagataの寄稿とともに。
「心とまって、再び生きた日。」
どこから話せばいいだろう。
ある日を境に、順調に思えていた僕は、心がとまって、世界の音が聞こえなくなって、何も描けなくなっていた。本当は、もう何を作っていいか分からなくて、それに気がつかないフリをしていても、奥底の僕は完全に停止していた。
目の前の日々をなんとか生きながら、何も音が鳴らなくなった世界で、僕はじっと再び動き出す日を待っていた。しかし、待てども待てども、美しさは僕に音を立てなかった。
僕は、自分はもうダメだと、嘆き、悲観し、自分を憐れんだ。
でも、そうやって思えば思うほど、同時に自分がそれでも世界の美しさを感じることを、切望している事に気がついた。
そうして、諦めきれない僕は、少しずつ、日記のように、まずは日常をドローイングすることにした。
そうすることくらいしか、自分が今できることがない気がしていた。
「今日は、バスの窓から見えた知らない小さい娘と母が、犬を挟んで愛を渡し合っていた。」
「散歩中に見えた、お店の室内に干されたタオルが、外の風を求めて揺れていた。」
日常の中で心が動いたドローイングを描きため、見返している時、それまでは気にも留めなかった何気ない日常の風景が、自分の心を動かしてくれている事に気がついた。
もう聞こえないと思っていた美しさは、すぐそばの日常の中にあった。
それからは、日々、心が動く瞬間をドローイングで描き留めていくうちに、自分の中の朧げだった感覚が形を帯び見えてきた。
そうやって、僕は日々を、生活を、世界を、視点を、もう一度少しずつ再確認していった。
世界がぼくの心を引き留めたとき、僕は世界の美しさを見つけた。
そこに共鳴した僕は、もう一度、ここで生きられる事に気がついた。
そしてそれから、この世界の美しさを、初めて出会うような旋律で表現する事も、みずみずしい言葉で例えることも出来ない、不器用な僕は、気がつけば、またキャンバスの前に立っていた。
思い返してみれば、僕の目に映る世界は、日々となって溶け出し、バスの窓越しに、交差点の片隅に、夕焼けの準備に、そっとまぎれて、美しい音を鳴らし、何度でも僕の心を引き留め、再び生きるといいということを伝えてくれていた。
word by YutaroNagata
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